「不便」は都会人の思い込みだった?京都の秘境・久多で学生たちが見つけた、明日から価値観が変わる5つの視点

私たちが忘れていた「生きる」の手触り

蛇口をひねれば清冽な水が流れ、指先一つであらゆるサービスが自宅に届く。そんな都会の洗練された生活の中で、私たちはいつの間にか「生きる」という行為の根源的な手触りを失ってはいないでしょうか。買い物や消費によって日常の課題を即座に解決できる便利さは、裏を返せば、自らの生を自らの手に取り戻す機会を奪っているのかもしれません。

自然のサイクルと人々の営みが深く、濃密に溶け合う京都の秘境・久多(くた)。ここで実施された村・留学プレというプログラムを通じて、学生たちは都会の常識を根底から揺さぶる衝撃を経験しました。彼らが見出したのは、単なる田舎のノスタルジーではなく、現代社会が置き去りにしてきた「生命のリアリティ」でした。私たちが当たり前だと信じて疑わなかった価値観が、久多の地でどのように再定義されたのか。明日からのあなたの日常を鮮やかに彩り直す、5つの洞察を共有します。

1.「資源」とは建物ではなく、人の記憶の中にあった

地域資源と聞いたとき、私たちは反射的に立派な古民家や、写真映えする景観、あるいは希少な特産品といった「目に見えるもの」を探してしまいます。しかし、久多での対話を通じて学生たちが辿り着いたのは、資源という概念そのもののパラダイムシフトでした。

真の資源とは、物的財産の中にではなく、そこに住む「人の記憶」や「語り」、そして幾世代にもわたって受け継がれてきた「暮らしの知恵」の中にこそ宿っています。都会において、情報は瞬時に消費され、鮮度が落ちれば廃棄されるだけの「商品」に過ぎません。しかしこの村では、個人の記憶や知恵がコミュニティの持続性を支え、未来を育むための、文字通り枯れることのない「資源」として機能し続けているのです。情報を消費する生き方から、記憶を継承し積み上げる生き方へ。その視点の転換こそが、本当の意味で地域を、そして人生を豊かにする鍵となります。

2. 「不便」という言葉の押し付け:環境に馴染むという作法

都会で暮らす私たちは、しばしば地方の生活を「不便」という一言で片付けてしまいます。しかし、その言葉の裏には、自らの価値観を絶対視する無意識の傲慢さが隠れているのかもしれません。

学生たちがフィールドワークで突きつけられたのは、「私のフツーは普通じゃない」という冷徹な事実でした。外側から見た「不便」は、そこに住む人々にとっては嘆くべき欠乏ではなく、その環境の中で「いかに生きるか」という主体的な思考の対象でしかないのです。そこにあるのは、与えられた環境を消極的に受け入れ、我慢するだけの生活ではありません。自らの暮らしを営みながら、一歩ずつ、その土地に「馴染んでいく」という、しなやかで能動的な姿勢です。環境を自分に合わせるのではなく、自分が環境に馴染んでいく。この「不便」を飼い慣らすプロセスにこそ、現代人が忘れてしまった、人間本来のたくましい主体性が宿っています。

3. 通貨は「お金」ではなく「恩」:循環する豊かさの正体

久多の生活を根底で支えているのは、市場原理に基づいたお金の等価交換ではありません。そこには、目に見えない「恩」や「助け合い」が螺旋状に循環する、持続可能なコミュニティの姿がありました。

学生たちの心を激しく揺さぶったのは、自ら獲った鹿を惜しげもなく近隣に分け与える、猟師のだいすけさんの言葉でした。

だいすけさんが獲った鹿を近所にあげているとおっしゃった際、お金をいただかないことに疑問を覚え、「何を得ているのですか」と尋ねると「恩だ」と答えたことは特に印象的でした。

鹿という具体的なモノを受け渡すことで、彼は「恩」という無形の価値を受け取っていました。この「恩送り」の連鎖は、地域の集まりへの無償の場所提供や、報酬のない多忙な役職を全うする献身的な姿にも現れています。

特筆すべきは、都会人なら「プライバシーの侵害」と顔をしかめるような「情報の透明性(筒抜けであること)」が、この村では強固なセーフティーネットや防犯機能として働いているという事実です。お金で解決する関係は、支払いが終われば消滅します。しかし、恩と相互の透明性で結ばれた関係は、損得を超えた信頼を醸成し、結果として地域の持続可能性を担保しているのです。

4. 人間は自然の「中心」ではなく「一部」である

現代社会は、人間を世界の中心に据え、自然をその周囲に広がる「背景」や「利用すべき素材」として捉える人間中心主義に陥っています。しかし、久多の森の深淵に触れた学生たちは、その視点が過ちであったことを痛感しました。

自然と人間は、対極にある二項対立の存在ではありません。自然という巨大な生命の輪の中に、動植物と肩を並べて人間が存在している。私たちは、巨大なエコシステムのごく一部に過ぎないのです。

日本の森林が抱えてる問題もお聞きして、木がたくさんあるだけで良い自然だなーっと安易に思わなくなりました。

この言葉が示す通り、見かけの「緑」に惑わされるのではなく、システムとしての自然を洞察する視点こそが、真の理解をもたらします。人間が自然をコントロールするのではなく、環境があってこその自分であるという謙虚な自覚。このコペルニクス的転回を受け入れたとき、人はどこで暮らそうとも、世界の一部であるという力強い安心感を得ることができるはずです。

5. 暮らしに「時間」をかけるという贅沢

効率の最大化と時間の節約が至上命令とされる現代において、久多の暮らしは、それとは対極にある「真の贅沢」を提示しています。

食べたいものがあれば地の恵みから手作りし、小屋が必要になれば自ら柱を立てる。完成されたサービスを享受する代わりに、自らの手で生活を形作ることにあえて時間を費やす。学生たちは、その一見効率の悪いプロセスの中に、圧倒的な「生きる力」と、震えるような「人間らしさ」を見出しました。

自分の心地よい生活を、自分の手で支えるために手間と時間をかけること。それは決して浪費ではなく、奪われた人生の手綱を自分の手に取り戻すための、最も高貴な営みなのです。

あなたは「お金」以外で、何を受け渡して生きていきますか?

久多での「村・留学」が学生たちに突きつけたのは、「自分の生活を自分で担保できる人間になる必要性」という、現代社会を生き抜くための切実な問いでした。

私たちは今、あまりにも多くのことをお金や外部のサービスに委ねすぎてはいないでしょうか。利便性と引き換えに、自らの足で立つ感覚や、他者との深い魂の交流を差し出していないでしょうか。

村での学びは、単なる地方体験という枠を超え、私たちの生存そのものに鋭い問いを投げかけます。

「あなたは今日、お金以外で、誰に何を渡して生きていきますか?」

その答えを模索し、自分の生活を自分自身で担保しようと足掻くこと。それこそが、情報に溺れる都市の日常にいながらにして、一人の人間として「自分を生きる」ための、第一歩になるかもしれません。

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